応神天皇陵古墳の周りには、大小さまざまな墳丘が寄り添っています。{円墳|えんぷん}に短い張り出しをつけた{帆立貝形|ほたてがいがた}の{盾塚古墳|たてづかこふん}。{鞍塚古墳|くらづかこふん}。そして{方墳|ほうふん}の{東馬塚古墳|ひがしうまづかこふん}と{栗塚古墳|くりづかこふん}、さらに{東山古墳|ひがしやまこふん}。宮内庁が{応神陵|おうじんりょう}の{陪塚|ばいちょう}として指定する古墳は、あわせて五基あります。形も大きさもばらばらで、ひとつの王墓を中心に、小さな塚がいくつも輪を描くように並んでいます。
{東馬塚古墳|ひがしうまづかこふん}は一辺およそ30メートル、{栗塚古墳|くりづかこふん}は一辺43メートルの
方墳で、どちらも五世紀のはじめごろの築造とされます。主墳の{応神陵|おうじんりょう}とほぼ同じ時期に築かれた
陪塚と考えられています。{栗塚古墳|くりづかこふん}の高さは約五メートル、{東馬塚古墳|ひがしうまづかこふん}は三メートル半ほど。どちらも、背の高い人の何倍かの高さに土を盛った、小さいけれど手間のかかった墓です。
盾、鞍、馬。名前だけを並べると、武具や馬具をしまった倉のようにも聞こえます。けれど、いま使われている呼び名は、ずっとのちの時代につけられたもので、中身と結びつくとはかぎりません。実際に何が納められていたのかは、発掘された塚ごとに違い、手がかりの乏しい塚も少なくありません。
{東山古墳|ひがしやまこふん}を含め、主墳を取り巻く小さな塚は、王の死後の世界に付き従う人や物の配置図だった、という見方もされています。{応神陵|おうじんりょう}のすぐ近くに墓を築くことを許された人々は、生前も、王のごく近くで働いていたのでしょう。
小さな墓を数えていくと、巨大墳丘をひとりで築くことなどできなかった、という当たり前のことに、あらためて気づかされます。土を運ぶ人、石を敷く人、{埴輪|はにわ}を焼く人。名前を残さなかった大勢の手が、この一帯の土の下に重なっています。
塚は、置かれた場所だけで、王との距離を語りつづけています。
名称: 盾塚古墳・鞍塚古墳・東馬塚古墳・栗塚古墳・東山古墳(
応神陵の陪塚)
墳形: 東馬塚古墳と栗塚古墳は
方墳、盾塚古墳は帆立貝形
規模: 東馬塚古墳 一辺約30m/栗塚古墳 一辺約43m
所在: 大阪府羽曳野市・藤井寺市(
古市古墳群)
位置づけ:
応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)の
陪塚として宮内庁が指定
世界遺産登録: 2019年7月
百舌鳥・古市古墳群
地図:
古市エリア地図
公式サイト/Official Site: 百舌鳥・古市古墳群
Photo: ブルーノ・プラス(Bruno Plus) /
Wikimedia Commons (CC-BY-SA-4.0)