反正天皇陵古墳(田出井山古墳)― 百舌鳥北部の天皇陵

反正天皇陵古墳(田出井山古墳)― 百舌鳥北部の天皇陵
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神社の境内が、ひとつの墳丘の濠にぴったりと接しています。[反正天皇陵古墳](https://woud.io/kofun/ja/kofun_10)、別名[田出井山古墳](https://woud.io/kofun/ja/kofun_10)。百舌鳥古墳群の北のはずれ、堺の市街地のただなかです。 隣の{方違神社|ほうちがいじんじゃ}は、旅立ちや引っ越しの方角を避ける祈りで知られる神社です。平安時代の貴族は、行き先が凶の方角にあたると、前の晩にいったん別の方角へ泊まってから出直す「{方違|かたたが}え」をしました。古墳のほうは、前方部の北東の角で、神社の境内が内側の濠に接しています。古墳の森と神社の森がひと続きになり、街の一角に、そこだけ時間の流れが違う島のような空間が残りました。 墳丘の長さは約148メートル、後円部の径はおよそ76メートル、前方部の幅はおよそ110メートルと、前方部のほうが広く開いています。五世紀の前半から中ごろの築造と考えられています。仁徳陵の三分の一に満たない規模で、かつて二重にめぐっていた濠の外側は、十三世紀の中ごろから十四世紀の後半にかけて埋まり、いまは内側だけが水をたたえています。埋まった{外濠|そとぼり}のあとには、やがて家々が建ち並びました。宮内庁は{反正天皇|はんぜいてんのう}の陵に{治定|じじょう}していますが、規模の小ささから、{被葬者|ひそうしゃ}をめぐる疑問も出されています。{古市|ふるいち}の{応神陵|おうじんりょう}が四百メートルを超えることを思えば、その差ははっきりしています。 発掘では、めのう製の{勾玉|まがたま}や、五世紀代の{須恵器|すえき}の台のほか、円筒埴輪、朝顔の形の{埴輪|はにわ}、人物{埴輪|はにわ}も出ています。『{日本書紀|にほんしょき}』では、{反正天皇|はんぜいてんのう}は{仁徳天皇|にんとくてんのう}の子で、{履中天皇|りちゅうてんのう}の弟とされます。父や兄に続く王が、これほど小ぶりな墳丘に収まった理由は、王権の事情が変わったためとも、別の人物の墓だからともいわれ、決着していません。 大きさで王を測る癖は、築いた人ではなく、あとの世に生きる私たちの側にあるのかもしれません。 名称: 反正天皇陵古墳(田出井山古墳) 所在地: 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁 墳形: 前方後円墳 墳丘全長: 約148メートル エリア: 百舌鳥古墳群(北部) 築造時期: 5世紀前半から中ごろと考えられている 特徴: 前方部が広く開く/方違神社の境内に接する/市街地に立地 世界遺産登録: 2019年7月「百舌鳥・古市古墳群」 ※被葬者は伝承に基づくもので確定していない 公式サイト/Official Site: 堺市 百舌鳥・古市古墳群 Photo: Saigen Jiro / Wikimedia Commons (CC0)

https://woud.io/kofun/ja/10