履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)と寺山南山・七観音古墳

履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)と寺山南山・七観音古墳
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父より古い、息子の墓。[履中天皇陵古墳](https://woud.io/kofun/ja/kofun_7)の不思議は、そこから始まります。『{日本書紀|にほんしょき}』では、{履中天皇|りちゅうてんのう}は{仁徳天皇|にんとくてんのう}の子とされています。ところが、墳丘の形や出土した埴輪の特徴からは、この古墳は仁徳陵より前、五世紀の初めに築かれたと考えられています。 墳丘の長さは約365メートルで、全国で三番目の大きさです。{百舌鳥古墳群|もずこふんぐん}の南西に、ゆったりと鍵穴の形を横たえ、濠が墳丘を取り巻いています。濠は本来三重にめぐらされ、外側の濠や堤のなごりが、周りの地形にうかがえるといいます。築かれた当時は、大阪湾を行き来する船から望める位置だったと考えられています。地元では、{上石津|かみいしづ}ミサンザイ{古墳|こふん}と呼びならわしてきました。 名前と年代が食いちがう。けれど、古墳そのものが嘘をついているわけではありません。天皇陵としての名は、ずっと後の時代に、文献と地形を照らし合わせて当てはめられたものです。江戸時代の終わりから明治にかけて、天皇陵の{治定|じじょう}が進められ、古墳ごとに天皇の名が当てられていきました。根拠になったのは、『{日本書紀|にほんしょき}』などの記述と、土地の言い伝えです。 この古墳の調査では、高さ1.4メートルほどもある大きな甲冑の形の{埴輪|はにわ}が出土しています。鎧をまとった武人の姿を写したものと考えられ、墳丘の上で、王の墓を守る役目を負っていたのかもしれません。 この巨大墳には、かつて多くの陪塚が寄り添っていたとされ、その多くは姿を消しました。いま残る二基が、{七観音古墳|しちかんのんこふん}と{寺山南山古墳|てらやまみなみやまこふん}です。{七観音古墳|しちかんのんこふん}は直径およそ32メートルの{円墳|えんぷん}。{寺山南山古墳|てらやまみなみやまこふん}は長辺45メートルほどの方墳で、履中陵と濠を共有しています。 名札を貼ったのは、築いた人ではなく、千年以上あとの時代の人でした。 名称: 履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳) 墳形: 前方後円墳 墳丘長: 約365メートル(全国第3位) 所在地: 大阪府堺市西区石津ヶ丘 関連古墳: 寺山南山古墳(方墳)/七観音古墳(円墳・陪塚) 特徴: 三重濠の名残、葺石・円筒埴輪の検出 築造時期: 5世紀前半(仁徳陵に先行すると考えられている) 世界遺産: 百舌鳥・古市古墳群(2019年登録) 地図: 百舌鳥・古市古墳群マップ 公式サイト: 百舌鳥・古市古墳群 Photo: Saigen Jiro / Wikimedia Commons (CC0)

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