どちらも、{藤井寺|ふじいでら}の街なかにあります。
[仲哀天皇陵古墳](https://woud.io/kofun/ja/kofun_14)、別名
{岡|おか}ミサンザイ{古墳|こふん}と、
[允恭天皇陵古墳](https://woud.io/kofun/ja/kofun_14)、別名
{市野山古墳|いちのやまこふん}。ともに宮内庁が陵として管理する
前方後円墳で、五世紀の後半から末にかけて築かれた、{古市|ふるいち}の大きな墓です。
{岡|おか}ミサンザイ{古墳|こふん}は墳丘の長さ約245メートル。幅およそ50メートルの
濠をめぐらせ、さらに外側の堤には、円筒
埴輪が間を置いて立ち並んでいたことが、発掘でわかっています。家や盾、人の形をした{埴輪|はにわ}も見つかりました。築造は五世紀の末ごろとされ、{古市|ふるいち}では新しい時期にあたる大型墳のひとつです。市街地のなかにあって、周りはすぐに住宅や道路に接しています。
{市野山古墳|いちのやまこふん}は全長約230メートル。二重の濠と堤に囲まれ、馬や犬、人をかたどった{埴輪|はにわ}が出土しています。かたわらには、{陪塚|ばいちょう}と考えられる鉢塚古墳が付き従います。築造は五世紀の後半とされてきましたが、最近の研究では中ごろまでさかのぼる可能性も指摘されています。
二つの陵の正式な名には、同じ「{恵我|えが}」という地名が入っています。仲哀天皇は{恵我長野西陵|えがのながののにしのみささぎ}、允恭天皇は{恵我長野北陵|えがのながののきたのみささぎ}。応神天皇陵も{恵我藻伏崗陵|えがのもふしのおかのみささぎ}です。{河内|かわち}のこの土地の名が、三人の王をひとつの系譜に結んで呼ぶ、住所のような役目をしています。ただし、それぞれの{被葬者|ひそうしゃ}が誰なのかは、確かめようがありません。
宮内庁の{陵墓|りょうぼ}は、考古学の発掘が自由にできない場所でもあります。それでも、堤の外側の発掘や、濠の周りの調査から、{埴輪|はにわ}の並べ方や濠の構造が、少しずつ明らかになってきました。見えない墳丘の内側を、外側の土から読みとる作業です。
墓の主の名は揺らいでも、住所にあたる地名だけは、千五百年たっても動かずにいます。
名称:
仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)
墳形:
前方後円墳/全長 約245メートル
築造時期: 5世紀末ごろ
所在地: 大阪府藤井寺市藤井寺
名称:
允恭天皇陵古墳(市野山古墳)
墳形:
前方後円墳/全長 約230メートル
築造時期: 5世紀後半ごろ
所在地: 大阪府藤井寺市国府
関連:
鉢塚古墳(允恭陵の
陪塚と考えられている)
管理: 宮内庁(天皇陵として治定)
構成資産:
百舌鳥・古市古墳群(2019年 ユネスコ世界文化遺産登録)
地図:
古市エリアの地図
公式サイト/Official Site:
百舌鳥・古市古墳群
Photo: Saigen Jiro /
Wikimedia Commons (CC0)