源流の静けさを抜けると、空気がふっと変わる場所があります。少し湿り気を帯びて、ひんやりとした緑の匂いが満ちる――そこが、シダの谷と呼ばれる源流の流れの区間です。 目を閉じて、想像してみてください。大人の腰の高さほどまで伸びたシダの葉が、幾重にも重なり、薄暗い谷をやわらかな緑で埋め尽くしている光景。葉の一枚一枚は、まるで…
源流の静けさを抜けると、空気がふっと変わる場所があります。少し湿り気を帯びて、ひんやりとした緑の匂いが満ちる――そこが、シダの谷と呼ばれる源流の流れの区間です。
目を閉じて、想像してみてください。大人の腰の高さほどまで伸びたシダの葉が、幾重にも重なり、薄暗い谷をやわらかな緑で埋め尽くしている光景。葉の一枚一枚は、まるで羽根のように細かく裂け、光を受けると半透明に透き通ります。風が通るたび、その羽根がゆっくりと揺れ、谷全体が静かに呼吸しているようにも見えるのです。
シダという植物は、花を咲かせません。種子ではなく、葉の裏側にできる小さな胞子で、いのちを次の世代へとつないでいきます。これは、花を咲かせる植物がこの地球に現れる、はるか昔から続いてきた方法です。今から三億年以上も前、まだ恐竜さえいなかった頃、地上はこうしたシダの仲間で覆われていました。ここに広がる緑は、太古の風景の面影をそのまま今に伝えているのです。
考えてみると、不思議ではありませんか。あなたが今この瞬間に息をしている、その空気の一部は、こうした古いシダたちが何億年もかけて作り出した酸素にたどりつきます。あなたの呼吸と、この谷のシダの世界は、長い長い時間を越えて、確かにつながっているのです。
小網代の森のシダの谷は、源流から流れ出した流れが折々に氾濫する岸辺や、岩盤を基盤とする斜面の森からしたたり落ちる水でわずかに湿った斜面に育まれています。源流の森から絞りだされる水の恵みが、この古い植物たちにとって、ちょうどよいゆりかごを作り出しているのですね。
ここに広がる緑は、あなたがこの場所を離れたあとも、変わらぬ静けさのなかで、遠い過去から引き継いだ方式で、ゆっくりと胞子を散らし、次のいのちへと、その営みを受け渡し続けてゆくのです。
エリア: 源流エリア(浦の川の源流)/シダの谷
見どころ: 腰の高さまで茂るシダの群落、葉裏の胞子による繁殖、太古の植生を思わせる景観
植物の特徴: 花を咲かせず胞子でいのちをつなぐ古い系統(約3億年前から続く仲間)
環境: 源流の湧き水でわずかに湿った斜面
関連: 冬眠明けの
アカテガニが暮らす斜面/
小網代の森
所在地: 神奈川県三浦市三崎町小網代
地図:
小網代の森マップ
公式サイト/Official Site:
小網代の森(神奈川県)
原稿監修 : 岸由二 (慶應義塾大学 名誉教授)
写真 : 柳瀬博一 (東京科学大学 教授)
プロデューサー :
太刀川英輔 (
NOSIGNER代表・慶應義塾大学特任教授)
発行 :
NOSIGNER・NPO法人 小網代野外活動調整会議