ある男が、市場で天秤をごまかしています。ほんの少し、重りに指を添えて。誰も見ていないと思いながら。その指先のわずかな動きが、千年以上も前に、ボロブドゥールの隠れた回廊の壁へと彫り込まれました。 ジャワ島の職人たちが最初に刻んだのは、悟りでも、天上の浄土でもありませんでした。基壇の内側――後の世にレリーフごと覆い隠された…
ある男が、市場で天秤をごまかしています。ほんの少し、重りに指を添えて。誰も見ていないと思いながら。その指先のわずかな動きが、千年以上も前に、
ボロブドゥールの隠れた回廊の壁へと彫り込まれました。
ジャワ島の職人たちが最初に刻んだのは、悟りでも、天上の浄土でもありませんでした。
基壇の内側――後の世にレリーフごと覆い隠された、いちばん低い場所に並ぶのは、欲しがり、奪い、欺き、そして報いを受ける、ごく普通の人間たちの姿です。これは
カルマ・ヴィバンガ、行いとその結果を語る物語の連なり。漁をする者、商う者、争う者。着飾った女、酒に酔う男。彼らの表情は、笑いも、ため息も、千二百年を越えて、石の中に静かに息づいています。
なぜ巡礼の道は、こんな場所から始まるのでしょう。天へ昇る前に、まず地上の自分自身を知れ、ということなのかもしれません。欲に揺れ、過ちを犯し、それでも生きていく――その姿こそ、誰もが最初に手放さねばならない、自分自身だったのです。
この壁を彫った石工もまた、市場で値切り、酒を飲み、ときには誰かを出し抜いたことがあったでしょう。自分と同じ弱さを持つ人間たちを、彼らは裁く線ではなく、見慣れた隣人を写す線で彫っています。
完成からほどなく、この
隠された基壇は新たな石で塞がれ、人々の目から消えました。土台を補強するためとも、見せるべきでない場面だったからとも言われます。眠っていた人間たちの群像が再び光を浴びたのは、千年以上のち、1885年のことでした。
彼らは裁かれるために彫られたのではありません。許され、先へ進むために、そこにいるのです。 その指先は、まだ天秤に触れたまま。石の中で、千年以上、同じ重さを量り続けています。
場所/Location: 隠れた基壇(カルマ・ヴィバンガのレリーフ), ボロブドゥール寺院, インドネシア・中部ジャワ州
テーマ/Theme: 欲界(三界の最下層)と因果応報の物語
対象レリーフ/Reliefs: カルマ・ヴィバンガ(行為とその果報を描く連作)
建立/Construction: 8〜9世紀, シャイレーンドラ朝
特記/Notes: 完成後に石で覆われ、1885年に発見され、1890〜91年に撮影・記録された
地図/Map:
ボロブドゥール
公式サイト/Official Site:
Borobudur - Taman Wisata Candi
Photo: Bill Fairs /
Unsplash (unsplash)