石段をのぼりきった先で、壁が消える。 それまでずっと続いていた回廊——石に刻まれた物語、賢者の説話、連なる浮彫——が、ふっと両脇へ退いていく。残るのは、空と、ひらかれた円い大地だけ。 ここが無色界(むしきかい)、このボロブドゥールの最も高い領域です。欲にまみれた欲界を抜け、形あるものに彩られた色界の回廊をくぐり抜けた者…
石段をのぼりきった先で、壁が消える。
それまでずっと続いていた回廊——石に刻まれた物語、賢者の説話、連なる浮彫——が、ふっと両脇へ退いていく。残るのは、空と、ひらかれた円い大地だけ。
ここが
無色界(むしきかい)、この
ボロブドゥールの最も高い領域です。欲にまみれた
欲界を抜け、形あるものに彩られた
色界の回廊をくぐり抜けた者だけがたどり着く台地。三層の円い壇が、水面に落ちた一雫の波紋のように、静かに広がっています。
そして気づく——ここには、語るべき物語が彫られていないことに。壁がない。絵がない。それは欠落ではありません。言葉も形も色も、語り尽くされたということ。すべてを置いてきた魂が、ようやく立てる場所なのです。
円い壇の上には、鐘を伏せたような
ストゥーパがひとつ、またひとつと並んでいます。その透かし彫りの格子のうちには、静かに座る仏陀の姿。けれど完全には見えません。光と影のあわいに、半ば隠れたまま。見えた、と思えば消え、消えた、と思えば、また気配だけが戻ってくる。
ここまで歩いてきた人は、もう知っています。教えとは、握りしめるものではなく、ほどいていくものだったと。
八世紀の終わり、この円い台地を設計した人々は、言葉では渡せないものを、空間そのものに託しました。形をもって、形のなさを示す。声をもって、沈黙を語る。その逆説は、千二百年を経ても、ここに息をひそめています。
石は、もう何も語りません。ただ、空がそこにあるだけ。
場所: 無色界(円壇)/ Arupadhatu, ボロブドゥール寺院
建造: 8世紀後半〜9世紀初頭、シャイレーンドラ朝
構造: 三層の円形台地と、それを囲む72基の透かし彫りストゥーパ、頂上の大ストゥーパ
象徴: 形・色を超えた境地(無色界)、曼荼羅の最上層
所在地:
中部ジャワ州マゲラン県
登録: ユネスコ世界遺産(1991年)
公式サイト/Official Site:
Borobudur - Indonesian Heritage Agency
Photo: masbebet /
Pixabay (pixabay)