寛政六年、江戸の人々は度肝を抜かれた。どこからともなく現れた絵師が、役者絵の常識を根底から覆したのだ。東洲斎写楽。その名は今も謎に包まれている。わずか十ヶ月の活動期間に百四十点余りの作品を残し、忽然と姿を消した。まるで嵐のような登場と退場。写楽の役者絵は、それまでの美化された役者の姿とは全く異なっていた。歌舞伎役者の大…
寛政六年、江戸の人々は度肝を抜かれた。どこからともなく現れた絵師が、役者絵の常識を根底から覆したのだ。東洲斎写楽。その名は今も謎に包まれている。わずか十ヶ月の活動期間に百四十点余りの作品を残し、忽然と姿を消した。まるで嵐のような登場と退場。写楽の役者絵は、それまでの美化された役者の姿とは全く異なっていた。歌舞伎役者の大首絵。雲母摺りの豪華な背景に浮かび上がる顔は、時に醜悪とすら言える迫力を持つ。目は大きく見開かれ、口元は歪み、表情は誇張される。これは似顔絵ではない。役者が演じるその瞬間の「芸」を捉えた記録なのだ。三代目大谷鬼次の「奴江戸兵衛」を見よ。両手を前に突き出し、目を剥いたその姿。悪役の凄みが画面から溢れ出す。役者本人は「あまりにも似すぎている」と不満を漏らしたという。美化を求める役者と、真実を描こうとする絵師。その軋轢が、写楽の短い活動期間の一因とも言われている。では、写楽とは一体何者だったのか。阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛説が有力とされるが、確証はない。北斎の変名説、歌麿との同一人物説、複数人による合作説まで、様々な仮説が飛び交う。この謎こそが、写楽の魅力をさらに深めている。一つ確かなことがある。写楽の作品は、当時の江戸で必ずしも歓迎されなかった。あまりにも真に迫りすぎた表現は、華やかな娯楽を求める人々の期待を裏切ったのかもしれない。だが二百年後、その革新性は世界で高く評価されることになる。ドイツの美術研究家ユリウス・クルトは、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と称えた。時代を超えて認められる芸術。写楽が残した謎と作品は、今なお人々の想像力を掻き立て続けている。
東洲斎写楽は寛政6年(1794年)5月から翌年1月までの約10ヶ月間に、版元・蔦屋重三郎のもとで約145点の作品を発表した。デビュー作28点は全て雲母摺りの大首絵という破格の待遇だった。斎藤十郎兵衛説は、1984年に発見された「増補浮世類考」の記述に基づく。阿波徳島藩の能役者で、身分の関係から本名を隠して活動したとされる。写楽の作品は当時「あまり真を描かんとてあらぬさま」(真実を描きすぎて芸術性に欠ける)と批判された記録が残っている。